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シャトー・カントメルル

中世において、カントメルルのシャトーはガロンヌ川との境界にあり、メドック地区の川岸を防御する要塞の一部をなしており、それは現在のシャトーから若干0.5マイル離れた場所にあった。

分かっている中でカントメルルの領主について触れている最も古い史書は、ラ・ソーヴ・マジュール・アビーの“グラン・カルチュレール”であり、12世紀に遡る。僧が君主国のコミュニティ内での全ての取引を記録していた。

それから初めて1354年に、その土地で葡萄栽培が行われた形跡が残っている。カントメルルの領主が10分の1の税をクレーレ(英国の“クラレット”にインスピレーションを与えた淡い赤ワイン)のトノー(大樽やボルドーの大桶)のワインに充てられた。

15世紀においては、カントメルルの封建の領土は、もともとランド地域出身のCaupène家が所有していた。1575年には唯一3つのトノーワイン、つまり12ボルドー樽のみが生産されていたが、中世から16世紀にかけて、メドックはワイン生産よりも穀物栽培に力を入れている状態であった。

1579年8月20日、ボルドー議会の第2代目議長のジャン・ドゥ・ヴィルヌーブはカントメルル、la Raze、Nestérieuの高貴なシャトーや傑出した土地を購入した。

1579年-1892年 ヴィルヌーヴ・ドゥ・デュルフォール家

トゥールーズ、アジャン、カントメルル、マカオ、Ludon=ドゥオールやその他の土地の領主であった、ジャン・ドゥ・ヴィルヌーヴが、デュレスやブランクフォールの家のアントワネット・ドゥ・デュルフォールと結婚した。この結納により、ヴィルヌーヴ・ドゥ・カントメルル家の所有物は1600年以降ヴィルヌーヴ・ドゥ・デュルフォールの物となった。

所有者が変更し、新しい種類の栽培が適用された。それまではメドック地区のワイン生産を発展し始めた地であった。16世紀にはカントメルルの土地でワインは主要な産業となった。

17世紀にカントメルルの管轄は、著名なジロンヴィル、モーカン、スウォイヴなど多くの偉大で高貴なシャトーへと拡張していった。

1892年、ヴィルヌーヴ家の最後の子孫で、チャールズ・ダバディ男爵夫人であったジャンヌ・アマンドがカントメルルをデュボス家へ売却したため、300年以上続いたヴィルヌーヴ・ドゥ・デュルフォール家の所有が終了した。

テオフィル=ジャン・デュボスが1892年にエステートを受け継ぎ、息子のピエールとベルナールの助けで運営した。カントメルルのオーナー兼生産者であったテオフィルは、ユニオン・オブ・メドックの副社長であり、デュボス・フレール設立(1914年売却)のネゴシアンでもあった。1905年、テオフィルの没後、ピエールとベルナール・デュボスが1923年までカントメルルの所有権を共有し、その後ピエールが単独の所有者となった。

戦争と厳しい時代であった1930年から1940年の間、シャトーの多くの区画が引き払われた結果、1945年から81年までたったの61エーカーのみ維持され、ワインが生産された。

ピエールは1967年に死去し、甥の息子のベルトラン・クローゼルがエステートの管理を一人で行い、その後1981年にSAMBTPグループに売却された。しかし“1855年格付け”畑に投資するという考えはずっと活かされてきており、それがAlbert Parmentの注意を引いた。彼は1980年に新しいグループのジェネラル・マネージャーとなった。ボルドー地域の7つのシャトーオーナー、ジャン・コーディアに率いられ、アルベルトはいくつかの土地を訪問し、カントメルルを購入することに決めた。

1981年から1990年まで:再建

カントメルルは長年の難しい時期を経てきており、土地は困難な状態だった。間違いなく美しく、広大なシャトーではあったが、完全に荒廃していた。シャトー周辺のたった20haの広さに樹があり、醸造施設と住居はほとんど体を成していなかった。

醸造施設の再建と畑の再植樹は、グループがプロジェクトの方向性について話し合ったコーディアの助けを借りて完了させた。

シャトーの技術チームにとっては、新しく植樹された畑の大量の葡萄を受け入れるためのスペースがかなり不足しており、小さな“土産”のオーク樽を置いて使用しなければならなかった。

これは翌年以降も継続して使われ、毎年その樽で生産されたワインは、見事に五感を刺激するような趣を持つものに仕上がり、新しい大桶の部屋で3,200ヘクトリットルの収容量のオーク樽を設置することに繋がっていった。

その部屋は、1990ヴィンテージの収穫から稼働し始めた。つまり、カントメルルが自主的に伝統的なオークの大桶でワイン醸造する方法へと回帰したのだ!90年代末にグループはシャトーの建造物に注意を向け、再建を完了し、ワイン販売を推進するための適切な環境で顧客を受け入れられるようにした。

1991年-2000年 シャトーは再び独立することに

10年の集中投資の後で、カントメルルは立ち止まり、ボルドーのグラン・クリュワインの市場の将来性について考えた。1991年から95年の非常に経済的に難しい状況の中で熟考が重ねられた。

この時期、醸造の方向性とワインのマーケティングはまだコーディアに委託しており、コーディアがシャトーでボトル詰めした後の在庫の管理を行っていた。

1993年にボルドーのネゴシアンが作業工程の大きな変更を実施し、カントメルルのオーナーがシャトーの全工程を管理することとなった。この決定による最初の取り組みとしては、チームを編成し、現地レベルで栽培工程を管理することだった。

そのチームというのが、まさに今日、カントメルルでの活動に指示を出しているチームだ。ボトルセラーの建設と生産施設を変え、シャトーからワインが出荷できるようにした。続く2年間、土地が購入されて以来存在しているコーディアとの専属の商業的な協定について再評価された。コーディアのセラーで倉庫が建設されており、商業的な見通しは不確定だった。互いの合意の下で、カントメルルがボルドー市場で自分の販売を管理することとなった。

1999年、素晴らしいチャンスが舞い込んできた。Ludonの村の畑20haを利用できることとなり、畑はシャトー・カントメルルとシャトー・ラ・ラギューヌの主要な区画の丁度、間に位置していた。カントメルルは土地を買収することができ、再建のための10年プログラムをスタートした。144年後の現在、カントメルルは1855年の格付けのときと同じ規模の畑、つまり90haを持っている。

2001年-現在:新しい畑でのアプローチ

新世紀の始まりは、変化の強調によって形作られた。葡萄栽培の注力の20年後に、ワインメーカーの注意は畑へと戻っていった。

今日、シャトーのワインの品質はがっしりとメドックの格付けの畑の中で、確立されており、テロワールのもともとの品質のために、各ヴィンテージのワインの中に表現を見つけることが出来る。10年後、素晴らしさへの追求はどのレベルにおいても、今までと同じくらい強いものである。

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